『かぜ』
それは忘れかけていた感覚だった。かつてそれはいつも彼女と共にあり、彼女の人生はそれとの闘いだったと言ってもいい。
(しおちゃんが産まれてからは一度もなかったのに……)
救急箱から体温計を取り出して咥えると、これからどうしようかと考える。
(しおちゃんを迎えに行くまではまだ時間があります)
お医者さんに診て貰うなら早いほうがいい。けれど診察が長引けば、迎えに行く時間に間に合わないかも知れない。
(結局、お母さんを頼るしかないんでしょうか……)
できることなら、誰にも心配も迷惑もかけたくはない。けれど、これがあれなら長引くことになる。
(37度5分……)
決して高くはないが、平熱と言うには高すぎる、微熱。
熱っぽいのは気のせいで、実は平熱というのをほんの少し期待していたのだけれど。
「しかたありません……」
ぼそっと呟いて、実家の番号を回した。『体調を崩したら連絡する』これは朋也と暮らし始めた時から今に至るまで消えないルールだ。
熱が出たこと、これから病院に行くこと、幼稚園には連絡しておくので、汐を迎えに行って欲しいことを伝えた。
「ただいま」
普段通りに家を出て、普段通りに汗を流して、普段通りに家に帰ると、普段と違う渚がいた。
「どうした! 渚っ!」
布団に横たわる渚の姿に、知るはずのない記憶が重なる。
「渚っ!」
「しぃー、落ち着いてください、朋也さん。渚は大丈夫ですから」
「パパ、静かに」
無意識に汐の身体を引き寄せて、早苗さんを見上げる朋也の貌はもう泣く寸前だ。
「…とも…やくん……? ごめんな…さい、すごく、眠くて……」
薄く開かれた目がまた閉じられていく。
「…っ!」
背筋の凍るような恐怖に襲われて恐慌状態に陥りそうな朋也を止めたのは、早苗さんの一言だった。
「ただの風邪だそうです。季節の変わり目ですからね。さっき飲んだ薬がよく効いてるみたいです」
「風邪……?」
体中の力が抜けた。
「はい、風邪です」
早苗さんはにっこりと微笑んで断言する。
「暖かくして、栄養を摂って、よく眠れば、すぐに良くなります。渚のおかゆとは別に食事も用意してありますから、あとで食べてくださいね」
早苗さんは立ち上がり、玄関に向かった。
「わたしはこれで帰ります。それでは朋也さん、後のことはよろしくお願いしますね」
「なにからなにまで、すいません」
「わたしたちは家族ですから」
早苗さんの笑顔は、遠慮はしないでくださいと言っていた。
「あ、そうそう。明日はわたしが汐ちゃんを送り迎えしましょうか?」
「いえ、これでも父親ですから」
「そうですね!」
早苗さんは、笑顔を残して帰って行った。
「よし汐、ご飯にしよう。ママを起こさないようにそーっとな」
元気よく右腕を突き上げて返事をする汐。声は出ていないが。
翌朝、渚の熱は下がっていたが朋也は大事を取るようにと言い聞かせて、汐を連れて出て行く。
「一日や二日、二人の面倒も見られないようじゃ夫失格父親失格だろ。俺に任せてゆっくり寝とけ」
「ママ、行ってきます」
無理矢理寝かされた布団の中から出て行く二人に手を振って、鍵の閉まる音で目を閉じる。
(さっき飲んだ薬、本当によく効く…、とても、眠い…です……)
朋也が仕事の中休みを貰って汐を連れて戻ったときも、渚は眠っていた。
額にそっと手を当ててみるともう熱はないようだったが、汐には静かに遊ぶよう言い聞かせて仕事に戻っていった。
仕事を終えて帰ってきた朋也がドアを開けると、すぐに声が飛んできた。
「おかえりなさい、朋也くん」
「ただいま、もう大丈夫なのか?」
「はい、熱もすっかり下がりました。それに、寝てるのも飽きちゃいました、えへへ。ただ……」
「ただ?」
「ずっと寝ていたので買い物に行けなかったんです。そしたらお母さんがパンを差し入れてくれました」
ちゃぶ台の上に乗せられた袋には、パンがみつしりと入ってゐた。
まさか……
少し引きつった朋也の顔。
「どうしましたか、朋也くん?」
………
……
…
「渚、快気祝いだ。今日はどっか食べに行こう」
「ただの風邪でそんなの大げさすぎます」
「じゃ、今からでも何か買いに行こう」
「パンがあるのにもったいないです。食べ物は粗末にしてはダメです。しおちゃんに言い訳できないです」
食べ(られる)物とは限らないだろ!
「さ、しおちゃんも朋也くんも手を洗ってきてください。ミルク温めてきます。朋也くんはコーヒーがいいですか?」
だめだ。こうなったらもう、せめて渚と汐だけでも守らないと。
朋也は袋を開けて、中のパンをちゃぶ台にぶちまけた。
(『今日のお薦めのパン』はどれだっ!?)
あまりにも独創的なパンを両手に持ち、信じてもいない神に加護を祈ったところで一気に頬張った。
………
……
…
おっさん。あんたスゲーよ。俺もあんたに少しでも近づけるよう、強く生きると誓うよ。
……明日から。
fin.
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